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2010年4月

2010/04/25

おっさんは優しくないのか

方々から偶然にも同時にお勧めしてもらって少し前に出た本だけども『ほんとはこわい「やさしさ社会」』森真一著を読んだ。

ああ、なんか社会学ってすごいよなあという感じで、社会の流れに一定の仮説を立てて学問することの気持ちの良さ/悪さ/必要性みたいなことを感じつつ、内容にはずいぶん納得させられて面白かったです!

“人それぞれ”という考え方にもとづく個人を尊重する考え方の世の中にあって「人を決して傷つけてはいけない」という「予防的やさしさ」が、傷つけたあとで謝るという従来のやさしさに代わって社会のルールになりつつある。

なにしろ、人を傷つけるのが悪という考え方。そこスタートでコミュニケーションが始まっているといい、そういったコミュニケーション方法が、社会のいわゆる良くない部分といわれるような状況を作り出しているのではないかという。

あとがきに著者が、本書は自分自身の分析でもあったと書いてあって うわあと思ったのは、私も読みながら続々と自分のことが書かれていると思ったから。読んでいる私以外の多くの人も「あ、これ自分」と思ったんじゃないか。すごいグルービー。

団塊の世代以上の男性の多くに「なんでこんなに優しくないんだろう」「デリカシーないなー」「冗談きついわー」と思うことが多くて、それは彼らのルールに「予防的やさしさ」という考え方がないからだということもぼんやり考えた。

しつこいなあと思うのだけど今でも覚えているのは、自分の結婚式の日(だからもう4年前だ)、式が終わった後に親戚のおじさんが「あなたより妹さんの方が綺麗だったね」といった。

人生で一回だけ、どんなぶさいくも美しいと言われていい日になんと! と怒りつつ、まあおじさんの発言はいわゆる軽口だし、そう怒るようなこともないよなという気持ちもあって、なんだろうこのやりどころのなさはと思っていた。

これこそまさに、私を傷つけたら許さないんだからという「予防的やさしさ」の要求が、結婚式という自分にとって特別だと思わねばならない日であることで最高潮に高まっていたからだったのか。

(いや、酔った男性が人の容姿について云々することについてはそのほかいろんなファクターがあって優しさの話だけに収束できないですな。飲み屋で働いてたころは若い男性も「優しくない」ことたくさんいってたもんなあ。例悪い!)

なにしろ、おっさんたちに私の考えるところの「優しさ」がなく、デリカシーがなく、冗談がきついことに、でも悪気がないことも分かっているので、「優しくない」ことが悪いことではないというこの状態が何なのかつかみかねていた。

真実はひとつじゃないということは、大人になってようやく知った。優しさの方法もひとつじゃない。

もっと優しさのハードルを低くして優しさに対して気軽になって、気楽に傷つけて、修復してという柔らかいやりとりができるといいようなことが本にはあった。でも、本を読むとこれかなり難しいよなあとも思う。

こどもとの近頃

いわゆる戦隊モノというのに、やや興味があるようだ。

生活習慣的にテレビ放送をしているときに起きていないので、父親が使っていたフィギュア(なんととってあった。義母の物持ちのよさの恐るべき)や、私の従兄弟の子が呼んでいた本などで見てちょっと興奮している。

ただ、イマイチ本やフィギュアの人たちがどういうことが行っているのか分かっていないようで、はじめのうちはフィギュアを使って大きい仮面ライダーのフィギュアと小さいなんとか戦隊のフィギュアを使って、

「おかあさん、だっこしてー」
「はいはい」

みたいな小芝居をやっていた。

あらかわいいと思っていたが、そんな時代も過ぎ、そろそろ彼らの仕事が戦闘であるといことに気づき始めているようです。

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2010/04/18

アンティークのすごい店

国内でアンティークショップのひとつの到達点として語られることの多いという店に夫に連れて行ってもらった。

なんか、すごかった。とりあえず私はここは店じゃないんじゃないかと思う。

子どもがバギーの中で寝てしまい(※)、バギーが入れる広さの店ではないこともあり夫と交代で入店したのだが、正直 起きていても子を連れて入るのは圧倒的に無理な店だった。子どもどころか、大人の私でさえも入る資格があるかどうかという意味ではギリギリだったんじゃないか。

入るのには、まず、呼び鈴を押す。すると主人が鍵を開けて入れてくれる。主人の人柄が恐ろしいということではない。「こんにちは」と迎え入れてくれて排他的な雰囲気はない。

じゃあ何がすごいのかというと、やっぱり店それ自体なんだろう。

まず、異様に静か。場所が街の通りを外れたところにあるので、まあ静かだろうとは思うんだけど、それ以上に静かだ。割れ物が多く売られていることが大きいと思う。割れ物が並ぶ店はこの店でなくても、緊張でうるさくても静かに感じることが多い。

さらに、そんな割れ物や売られているもの1品1品がなんだかすごいのだ。そもそも私はアンティークというものに全く造詣がないので、一見してぼろい皿とかぼろい家具とかぼろいカップなのだけど、そのぼろい物々が、私でも分かるくらい確実にゴーゴー気を吐いている。

で、なんだこの気は! とドラゴンボールみたいな気持ちですげえと思って値段を確認すると薄い今にも割れるぞという水のみグラスがなんでも60年前のフランスの品だとかで8000円とか書いてあるのだ。オー。そりゃ水のみグラスが異様な気を吐くわけだ。

歩くと床がきしむ。みし。どき。

ゆっくり店内を回って品々を見るうちに、この、私にとってはどうでもいいものを、でも強く興味があって一つ一つをきちんと見つめる動作はなんだろうと思えてきて、あ、美術館で展示でも見てるときの気分だと思いついた。

鍵がしまっているのでどうやって店を出たらよいのだろうと30秒くらいどきどきして出口に歩み寄ったら主人がサッと鍵を開けて出してくれた。

おもての道で夫が待っていて「おもしろいでしょう」というので「なんだこれ」といったら「現代美術ということでひとつ」とのこと。やっぱりか!

※ここへ来るまえに東京都写真美術館で「森村泰昌展」に一緒に行ったら、一気に全部吸い取られたようで出るなり寝た。夜中思い出して起きるんじゃないかと思ったら、そんなこともなく夜もいつも以上に寝た。

子どもとのちかごろ

・万華鏡エクスペリエンス到来で筒を覗く日々だが、興奮すると「おかあさんも一緒に見よう!」と誘ってくれる。それは無理かなあと遠慮していたが、無理やり一緒に覗いたら「あっ、見えた! そっちは見えてる?」「うん、見えてる!」という具合でなんと2人で一緒に覗けたのだった。

・同じくらいの成長過程をたどる子のお母さんに「大きくなったら何になる?」というやりとりがそろそろ成立するらしいということを小耳に挟んで聞いてみた。「大きくなたら何になる?」「…………小さくなる……」そうかそうかと頭をなぜた。

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2010/04/10

慎重に生きる

こどもとの近頃

話によると、近所(いわく「曲がり行って、左の左」)に小さなカボチャを植えたそうだ。あかちゃんカボチャで、牛乳で育てると言っていた。わかんないけど、胸がぎゅうと熱くなって目頭を押さえる。

わたしの近頃

友人のアパートからの帰り、雨の中外階段ですべった。子どもと手をつないだまま、ダンダンと2段くらい。

・雨
・子どもと手を繋いで
・妊娠中
・ひとんちの階段

と、こんなにもザ・気をつけなければいけない状況に取り囲まれながら人は(というか、私は、だ)階段からすべるのだ。どういうことだ。どういうことなんだよ一体。

少し前に買ってからあまりの履き心地の良さにほぼ毎日はいているスニーカーの性能を信じすぎていたからですという言い逃れはあるにしろ、あるにしろ、あるにしろ……。

後ろから同じように子どもの手をひいて階段をおりていた友人のリアクションが「ちょっ、ちょっとちょっと! あなた~~~ん」と完全にオネエになっていてすごく良かったのだけど、階段ですべったことにびびりまくって、そのことについては2日後くらいに思い出して気づいた。

「気をつけてね」「はい、気をつけます」というやりとり、単に挨拶の型ではなく本当に「よし、じゃあ気をつけるぞ」と思わねばならないなあ。あまりにも定型文すぎてスルーしがちなので、何かあたらしい警句を作って心で変換しようか。

「気をつけてね」といわれたら「はい、慎重に生きます」くらい思おう。

階段からすべった後、雨の中自転車で帰った。途中で自転車がパンクした。

これは気をつけようないが、慎重に生きようと思えば、そもそも天気予報で雨だというタイミングで自転車を出すまい。

階段からすべる前、子どもを遊ばせつつ友人と話していた。

「ああ」と思った。子どもを産んですぐのあの焦りを思い出したのだ。

首の座らない新生児のいる生活というのは、子どもの生後0ヶ月から、まあだいたい3ヶ月くらいまでの4ヶ月間。その後、腰が座って、立って、歩いて、とどんどん子どもは成長する。

だけど、私はせっかちで頭の回らないところがあるので、子どもが0ヶ月のときは0ヶ月、1ヶ月のときは1ヶ月と、まさにそのときの子どものことしか見えない生活を送っていたのだった。

先が、見えないのだ(なぜなら見ていないからです!)。

何よりも将来にあふれているはずの赤ん坊なのに、成長するということへの実感のわかなさが半端なかった。ずっと、今の状態のこの子と一緒であると勘違いしていたのだ。

そういったことなので、赤ん坊の成長を待つという概念が全くない。

あれは何だったんだろうといまだに思うのは、そうだ、ベビーマッサージの受講だ! 午前中のクラスで、まだ午前いっぱいは寝るクセのついていた子どもを無理に起こして連れて行くので、マッサージをしようとして転がすと泣いて、受講どころじゃなかった。

でも、午前中に起こすと泣くという状態が永遠に続くと思っていた私は、泣いても無理して行かなくちゃという気概で頑張って行ったんだった。いやあ、よく頑張った。

周りは、転がしても泣かずにマッサージを受けられるコンディションの赤ちゃんばっかりで、なんだかご迷惑をおかけしましたなあ。

そのことを友人らに話たら、「ああ、私も生まれたばっかの子どもスリングに入れて無理やり生け花やったわ」といっていて、心強かったよという話です。ベビーヨガも、アフタービクスも、代官山へのおでかけも、そんな無理することなかったんだよ。

でもそのときはやりたかったから、それでも良かったは良かったか。「今となってはそう思う」という心の動きの説得力よ。

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2010/04/04

盆と正月いっぺんに

物忘れはげしく、せっかちがよりせっかちになり、そして胎動激しい妊娠21週目におります。

せっかちにいよいよ拍車が、とはここ3年くらい言い続けているのだけど、「いよいよ」も「いよいよ」という感じだ。なんでも妊娠のせいにできる今だから、妊娠のせいにするけど、目に映る景色がやけにゆっくり見える。

会話でやけにせっついたことを発言して周囲がぽかーんとすることがここ1週間で3度くらいあって、徐々に自覚しています。

子どもには「ゆっくりだよ。ゆっくり食べてね」(うちの子どもは食いしん坊で早食い)という毎日、そのゆっくり、私もだ!

しかし

>なんでも妊娠のせいにできる今だから、妊娠のせいにするけど、周囲がやけにゆっくり見える。

と書いたの、このなんでも妊娠の「せい」にできるという雰囲気は便利というか、そもそも妊娠というものの与える影響の大きさ(だってお腹に人を一人入れてるんだから、まあ人生の奇祭だ)に驚く人間という図式をしみじみ感じる。

で、もろもろ妊娠のせいにしている事態を書き出してみたら、見事に妊娠してないときも楽にあてはまるようなことばっかだった。

・食欲が増す
・太りやすくなる
・物忘れがひどくなる
・腰が痛くなる
・怒りっぽくなる
・イライラする
・疲れやすくなる
・むくむ
・便秘になる
・夜に目がさめる

妊婦は意外に普通の人だった。

子どもとのちかごろ

※妊娠と子育ての話ばっかで大丈夫かと思うが仕方ないのです

とにかくよく踊る。私は自分の子どものことが大好きで大好きで、しかも人が踊りを踊るのを見るのも大好きなので、子どもが踊るというのは、盆と正月がいっぺんに来たよ、という状態だ。

これまでの人生でここまで的確に盆と正月がいっぺんにきたことがあっただろうかしら。

lalala human stepsというバレエカンパニーがあって、よく“超高速バレエ”といわれている。

が、5、6年前の来日公演に行って初めて見たとき、いつもとはちょっと違うタイプのプログラムだったのか(?)、その超高速ぶりをあまり見られなかったなあという感想だったのだ。

イメージとして残っているのは、体を大の字にひろげて立ち、両手両足をぶるぶる震わせているような体勢をベースにまた両手両足を振りまわして踊るという、高速! というよりも、なんか怖いよう、という感じで「ほげー」とするばかりだった。

今回、息子の踊りを見て、そういえばずいぶん前に見たlalalaってこんな感じだったような気がすんな、と思ったのだが確認したら全くもってぜんぜん違ったという話しです。

しかしすごいな。

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